音響計測 技術コラム
HATSの使い方 ― 人の頭と耳を再現する測定器を、規格と環境の中でどう運用するか ―
2026年5月13日
- HBK × Sonora 音響計測ソリューション
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- HATSの使い方 ― 人の頭と耳を再現する測定器を、規格と環境の中でどう運用するか ―
電気音響測定
はじめに
スマートフォン、ヘッドホン、ヘッドセット、補聴器、スマートスピーカー、車載スピーカーフォン――
いずれも「人の耳に届く音」を作る製品です。これらを正しく評価するためには、耳元での音圧、頭部による回折・反射、口元から放射される音声など、人体を介した音響的な振る舞いを再現できる測定器が必要になります。
その役割を担うのが、HATS(Head and Torso Simulator/頭部・胴体シミュレータ)です。本稿では、HATSの基本的な使い方を、関連規格、典型的な測定シナリオ、設置環境、運用上の留意点という観点から整理します。製品例は、HBK製HATSと、それを取り巻くHBKの計測チェーンを前提とします。
HATSとは何か
HATSは、成人の平均的な頭部・胴体の形状と音響特性を再現したマネキン型測定器です。構成により、
- 両耳の人工耳(Ear Simulator):鼓膜位置に置かれたマイクロホンと、人の外耳道・鼓膜の音響インピーダンスを模擬したカプラ
- 人工口(Mouth Simulator):唇位置を音源とし、規定された口元放射特性を再現するラウドスピーカー
を備えるものがあります。特に通話品質試験では、人工口を用いた送話試験と、人工耳を用いた受話試験の両方が重要になります。一方、卓上型HATSのように頭部単独構成として展開される機種もあるため、人工口の有無は製品の構成仕様で確認する必要があります。
このため、HATSは構成によって 「測る側(マイクとして)」と「鳴らす側(音声送出として)」の両方 で使えるのが大きな特徴です。
| 受音 | ヘッドホンやスピーカーが鳴らした音を、人が聴くのと近い条件で受け取り、耳元の音圧として記録する |
|---|---|
| 送音 | 通話品質試験で、人の声に相当する信号を口元から放射し、相手側マイクの収音性能を評価する |
HATSが関わる主な規格
HATSは「あればよい」ではなく、どの規格のどの条項に適合した個体か が運用上の出発点になります。代表的な規格は次の通りです。
| ITU-T P.58(最新版 2023) | 電話計測用HATSの音響特性を規定する勧告。口元・人工耳の音響特性、自由音場応答、許容歪み、レベル等を定めます。人工耳は narrowband / wideband / super-wideband / fullband、人工口は narrowband / wideband / super-wideband をサポートする枠組みで規定されます。通話品質試験の事実上の基盤規格です。 |
|---|---|
| IEC 60318-7:2022 | 「電気音響―人の頭と耳のシミュレータ―第7部:耳に近い音源を測定するための頭と胴体のシミュレータ」。マネキンの幾何寸法と音響特性の両方を規定し、両方を満たすものだけが本規格に適合するとされます。対象範囲は100Hz〜16kHz、空気伝搬音のみを対象とし、骨伝導や骨・組織のシミュレーションには適さないとされています。旧IEC TS 60318-7:2017を置き換えました。 |
| IEC 60318-4:2010 | 耳栓などを介して耳に結合される挿入型イヤホン用の閉塞耳シミュレータを規定。対象周波数範囲は100Hz〜10kHzです。 |
| ITU-T P.57 | 耳シミュレータの型式を規定する勧告。HBK Type 5128系列に搭載されるType 4620 耳シミュレータは、ITU-T P.57のType 4.3 系の高周波耳シミュレータとして位置づけられ、20kHzまでの人間耳インピーダンス再現を特徴とします。 |
| ANSI/ASA S3.36 | 米国系のマネキン規格。HBK Type 5128系列の仕様書ではANSI S3.36-1985への適合表記が見られますが、現在はANSI/ASA S3.36-2012も存在し、補聴器、聴覚保護具、ヘッドホン、イヤホン、電話機、ヘッドセット、ハンズフリー電話など、より広い用途を扱います。実際の適合年版は製品仕様書・校正証明書で確認する必要があります。 |
ここで、規格の対象範囲と製品仕様上の測定可能範囲は分けて確認することが重要です。たとえば IEC 60318-7:2022の規定範囲は100Hz〜16kHzですが、HBK Type 5128 / Type 4620 の製品仕様・ITU-T P.57 Type 4.3系の位置付けとしては、20kHzまでの高周波測定を特徴としています。これらは別の話として整理してください。
また、挿入型イヤホンや空気伝導補聴器の測定では、目的に応じてIEC 60318-4:2010に基づく閉塞耳シミュレータが用いられます。一方、HBK Type 5128系列に搭載されるType 4620はITU-T P.57 Type 4.3系として位置づけられるため、IEC 60318-4 とType 5128 / Type 4620は、用途が重なる部分はあっても、同一の規格体系として単純に扱わない方が安全です。
HATSの主な使い方(HBK製品で構成する場合)
1. ヘッドホン・イヤホンの周波数特性測定
最もイメージしやすい使い方です。
- HBK Type 5128系列 HATS の両耳に被測定ヘッドホンを装着、あるいは耳道にイヤホンを挿入
- 信号生成・取得はHBK LAN-XI 系データ収集ハードウェアとBK Connect(解析ソフトウェア)で構成
- 正弦波スイープ、ピンクノイズ、log-sweptサインなどを再生
- 耳シミュレータ内のマイクで音圧を取得し、周波数応答を算出
ここで重要なのは、Type 5128に搭載されるType 4620耳シミュレータが 人の耳の音響インピーダンス(負荷条件)を再現している ことです。単なる無響カプラに付けた測定では得られない、「実際にヘッドホンが人の耳に装着されたときの応答」を取得できます。Type 5128は、可聴帯域上端(20 kHz)までこの特性を確保している点が、旧Type 4128からの大きな進化です。
2. スマートフォン・ハンドセット・ヘッドセットの通話品質試験
通信機器の評価では、HATSは送音側でも受音側でも中心装置になります。
| 送話試験(Send) | Type 5128の口から所定レベルの音声信号を出し、被試験機のマイクが拾った信号を解析。送話感度、周波数特性、歪み、ノイズキャンセル性能などを評価 |
|---|---|
| 受話試験(Receive) | 被試験機を耳元または装着位置に配置し、相手側からの音声相当信号を再生。Type 5128の耳で音圧を取り、受話感度・周波数特性・最大出力レベルを評価 |
| エコー・両方向性能 | 両方を同時に行い、エコーキャンセラやダブルトーク条件下の挙動を確認 |
ITU-T P.58は、この一連の試験で基準となる「人」の音響特性を与える役割を担い、HBK Type 5128系列がその物理的な担い手となります。
3. スマートスピーカー・音声アシスタント機器の評価
近年、急速にHATSの用途として拡大している領域です。
- Type 5128の口から「ウェイクワード」や所定のコマンド音声を放射
- 環境ノイズの再生・取得には、HBK LAN-XI系の入出力ハードウェアとBK Connectを組み合わせ、再現性のあるノイズシナリオを構築
- 被試験機(スマートスピーカー等)のマイクアレイ・ビームフォーミング・ノイズリダクションの性能を、S/N比、誤認識率、応答までの距離などで評価
「人がリビングで話しかける条件」を、再現性のある音響的シナリオとして組み立てるためにHATSが不可欠になります。
4. 補聴器・聴覚保護具の評価
補聴器の出力特性、聴覚保護具の遮音性能などにも、HATSは標準的な台座として用いられます。挿入型デバイスはIEC 60318-4系の閉塞耳シミュレータ、外耳道入口で評価する形式はIEC 60318-7やITU-T P.57 Type 4.3系の枠組みが参照されます。HBK Type 5128系列は、これらの運用にあわせて構成・耳シミュレータを選定することで対応できます。
設置と測定環境
HATSは「単体で正確な測定値を返す装置」ではなく、音場の中に置かれたときに本来の性能を発揮する装置 です。設置環境の音響条件は測定結果に直接影響します。ただし、「HATSを使う=常に自由音場が前提」ではなく、試験の目的と規格によって必要な環境条件は変わります。
距離を置いた音源評価・外部音場を含む試験
スピーカー、スマートスピーカー、ハンズフリー機器など、距離を置いた音源評価や、外部音場を含めてHATSの受音特性を評価する試験では、自由音場または半自由音場として適格性を確認した環境が重要になります。
ここで参照されるのがISO 26101-1:2021「Acoustics – Test methods for the qualification of the acoustic environment – Part 1: Qualification of free-field environments」です。なお、旧 ISO 26101:2017 は ISO 26101-1:2021 に置き換えられており、ISO 26101-2:2024は主に環境補正値の決定を扱う点に注意してください。
過去の技術コラム無響室関連規格をどう読むかや逆二乗則成立エリアの設計論で整理した通り、空間そのものの適格性を測定の前提条件として扱うことが重要です。
ヘッドホン・イヤホンの装着測定
一方、ヘッドホン・イヤホンの装着測定は、測定対象が耳元に密接する性質上、必ずしもISO 26101-1適格の無響室が前提になるとは限りません。試験規格や目的により必要な環境条件は異なります。むしろ、
- 暗騒音:測定対象が小信号領域に及ぶ場合、室の暗騒音はそれ以下である必要があります
- 漏れ(leakage):装着不良による音漏れは特に低域で測定誤差の主因になります
- 開放型ヘッドホンに対する周辺反射:開放型構造では、外部空間からの戻りが測定に乗りやすい
- 装着位置・装着圧の再現性:高域の山谷を大きく左右する最大の変動要因
の管理が中心になります。
小型無響箱との組み合わせ
ヘッドホン・イヤホン単体の評価や、卓上で完結する試験では、HATSを小型無響箱に収める運用が現実的です。HBK Type 5128-B(Tabletop HATS)は、胴体を持たない頭部単独構成として展開されており、机上や小型無響箱内での運用に向きます。Type 5128-Bのような卓上型は、主にヘッドホン・イヤホン測定向けの頭部単独構成として扱われるため、人工口の有無は構成仕様で確認してください。
胴体まで含めた本格的な評価が必要な場合は、Type 5128-C(胴体付き HF HATS)を、より大きな無響室・半無響室に設置する構成になります。Type 5128-Cも用途に応じた構成違いがあり、簡易用途向けに耳なし・口なしのバリエーションが用意されています。
環境条件
| 暗騒音 | 上記の通り、測定下限を実質的に決めます |
|---|---|
| 温湿度 | 人工耳のカプラ特性は温度・湿度の影響を受けます。校正条件と運用条件を揃えることが望ましい |
| HATS本体の支持 | 振動経路、外部からの伝搬音、台座の反射の影響を最小化 |
校正と運用上の留意点
HATSを規格適合の文脈で使う場合、校正は単発の手続きではなく、運用全体の前提として扱う必要があります。
- 耳マイクロホンの感度校正:HBKの音響カリブレータ(ピストンホン/音圧カリブレータ)による定期校正
- マウスシミュレータの校正:MRP(Mouth Reference Point:ITU-T P.58で唇面の前方25mmの点として定義)で規定レベルが得られているかの確認
- 自由音場応答 / 拡散音場応答 の周期的な確認
- 装着位置の再現性:ヘッドホンの装着位置・装着圧を毎回同じ条件にすることが、再現性の最大の鍵
特にヘッドホン測定では、わずかな装着位置のずれが高域の山谷を大きく動かします。再現性を担保するためには、装着治具・位置決めマーカ・装着手順の標準化が欠かせません。これは、過去記事再現性をつくる ─ 音響測定における環境安定化設計で扱った思想と同じ系譜にあります。
HBK Type 5128 系列の位置づけ
現在、HBKのHATSラインアップで中心となるのがType 5128 系列(High-Frequency HATS)です。旧来のType 4128から進化した主な点は次の通りです。
| 可聴帯域全域(20 Hz〜20 kHz)をカバー | Type 4128 が実質 8 kHz で頭打ちになっていたのに対し、Type 5128 は MRI ベースで設計された解剖学的に正確な外耳道形状を備え、20 kHz までの測定を可能にしています |
|---|---|
| 耳シミュレータ | Type 4620 を搭載し、ITU-T P.57 Type 4.3 系の高周波耳シミュレータとして位置づけられる |
| 規格適合 | ITU-T P.58、IEC 60318-7、ANSI/ASA S3.36(製品仕様書では ANSI S3.36-1985 への適合が示される) |
| 構成のバリエーション | 胴体付きの Type 5128-C、卓上型の Type 5128-B など、用途に応じた形態を選択可能(耳なし・口なしの簡易用途向け構成もあり) |
| 計測チェーンとの統合 | HBK LAN-XI ハードウェア、BK Connect 解析ソフトウェアと組み合わせて、信号生成から取得・解析までを一気通貫で構成可能 |
ヘッドホン高域評価、ハイレゾ対応機器、TWS(True Wireless Stereo)イヤホンの装着位置感度評価など、近年の音響評価ニーズは可聴帯域上端まで含む方向に確実に進んでいます。HATS選定では「20 kHzまで評価可能か」「採用規格はどの版か」を確認することが、将来的な拡張性を含めて重要です。
まとめ
HATSの使い方を一文でまとめれば、「規格で定義された人の頭と耳を、目的に応じて整えた音場の中で使う」 ということに尽きます。
- 個体としては、ITU-T P.58 / ITU-T P.57 / IEC 60318-7 / IEC 60318-4 / ANSI/ASA S3.36のどの版に適合しているかを製品仕様書・校正証明書で確認する
- 設置環境としては、距離を置いた音源評価ではISO 26101-1:2021に基づく自由音場・半自由音場の適格性を確認した空間を用意し、ヘッドホン装着測定では暗騒音・漏れ・周辺反射・装着再現性を中心に管理する
- 運用としては、校正・装着再現性・暗騒音を含めて測定系全体を一貫して管理する
HATS単体の性能だけでは、最終的な測定信頼性は決まりません。HATSをどの規格に基づいて使い、どんな音場の中で、どの計測チェーンと組み合わせるか ――この組み合わせ全体が測定結果の品質を決めます。
Moritani としては、HBK Type 5128系列のHATSと、SONORAの無響室・無響箱を別々の機器・空間としてではなく、HBKの計測チェーン(LAN-XI / BK Connect)まで含めたひとつの測定系として整合させる視点でご提案しています。
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